Things could be worse.

聞いてほしいひとりごと。

備忘録

単なる備忘録。

 

寝かしつけは母親だからできることというのは思い込みや決めつけであり、父親もやってみて、ベストを尽くすべきだ。

何が心的負担になっているかはなかなかわからない。

 

自分の両親が正しいとは限らないし、自分の流儀や考え方に沿っているとも限らない。

疑えとまでは言わないが、自分のポリシーがなんであるか、それが納得できるものかは問い続けなければならない。

 

写真は撮れるときに撮っておいたほうがいい。

機材も写りも重要だが、そもそも撮らないことにはそれ以上話にもならない。

そして思っている以上にその写真に喜び、感動してくれる人がいることを覚えておきたい。

 

31年生きてきて、わかっているつもりでもなかなか身に染みてはいない教訓や実感。

32年前はいくつ浸透させられるかな。

 

実感と幸せ

2018年になりました。

今年もよろしくお願いします。

 

日付変わってから出て行った妹にあけましておめでとうと言うと、

「朝がこんと実感がないー。」

と言われた。

 

たしかに今年の年越しは31年生きてきて一番実感がない。

 

歳を重ねるに連れて、経験が増え、目新しい感動的が少なくなり、新鮮な感覚も鈍っていく。

そういう現象のせいで、新たな年を感じられなくなっているのかもしれない。

 

学生の頃、クリスマスも、初詣も誰と行くかどう過ごすかが命のようなもので。

年賀状だって何枚届くのか、好きな子からは届くのかなとワクワクドキドキしていた。

朝一番にポストを見に行って年賀状が届いていないことにがっかりしたりもした。

 

そんな日々を懐かしく眩しく思う一方、ありきたりだが家族と健康にこの時期を迎えられるのがなによりありがたい。

幸せのかたちも感じ方も確実に変わってきている。

言い聞かせるまでもなく、その変化の連続が自分にしっくりきていることが、なにより幸せなことなんだろう。

 

あんまりしあわせ幸せ書くと胡散臭いので、自慢話はこのへんで。

 

と適当に結んで寝ようと思ったら、財布に年末ジャンボが一枚入ったままなのを思い出した。

 

2017年は年が明けても一番私の心を離さない。

道理で年が明けた気がしないわけだ。

 

今年も大切な人たちが健康無事でありますように。

模倣と理想

「芸の道は模倣から」という言葉がある。

 

自身の芸として昇華させる道のりは、まず誰しもが師匠など先達を真似ることから始まるのだ、という意味だろう。

いろいろな場面で思い出し、頷ける好きな言葉の一つだ。

 

(余談だがこの言葉は「ゲイの道はモーホーから」と言いたいがための言葉だという説もあり、これまた日本語の妙ということで好きな理由の一つだ。)

 

芸事ではなくても、誰しも成長したい部分やなりたい理想などがあって、それに向かって憧れの先輩を真似たり、はたまた好きな芸能人と同じものを買って手っ取り早く近づこうとすることはよくある。

 

こうした行為が私は大好きで、形からだろうが思いつきだろうが、なりたい自分に近づこうとする行為は前向きで楽しいものだと思っている。

 

そういう行為の一つに、なりたい自分をイメージして演じることがある。

現実の自分と乖離しない程度にいわゆるいい男の設定をつくり、それに合わせて日常を演じるのだ。

 

例えばデキるビジネスマンを演じるべく、早めに起きて、おしゃれなネクタイを身につけて、スタバに行って、優雅に新聞を読むのもいいだろう。

 

中村アンのようなイイ女を演じるべく、ロカボを意識しつつ、ハードなジムに通い、ときにはプロテインを飲むのもいいだろう。

 

結局入り方がどうであれ、それがきっかけで自己成長につながること自体が美しい。

前向きで迷惑をかけない行為はどんどんやるべきだ。

 

というブログを帰省中の新幹線で書いている。

妻と娘に1ヶ月ぶりに会えるのがなにより嬉しい。

3時間後には、いい意味で、素敵な夫、父を演じよう。

イメージは…たまちゃんのパパかな笑

 

 

誕生日とばあちゃん

七夕が誕生日だといろんな人に覚えてもらえて得だ。

しかもクリスマスみたいにプレゼントを一緒くたにされることもない。

ロマンティックだね、なんて言われたことまである。

1年の中で最も得している誕生日かもしれない。

 

そんな誕生日にばあちゃんが亡くなった。

88歳。

以前からガンで入退院もしていたし、余命宣告も受けていた。

だから急に連絡を受けても驚きはしなかったし、離れて暮らしていることもあり実感がなかった。

 

それは蝋人形みたいな遺体を見ても、お骨を見ても変わらなかった。

なのにぐずる娘を抱いて2人きりのときにはなぜだか涙が出てきた。

常に優しくて、明るくて、周りに気配り、よく働くばあちゃん。

個人的に特別な思い出があるわけではないのに、心に残る人だった。

誰にとっても、いいばあちゃんだった。

 

俺は31にもなって、時に短気で、根気がなくて、自分に甘い人間だ。

いつばあちゃんみたいな人間になれるかわからない。

でもなんとなく、ばあちゃんは「好きにせんね」と笑って言ってくれそうだ。

ばあちゃん、たかしはばあちゃんみたいな周りを明るくする人に、自分の意思でなりたかよ。

仕事もなんでもがんばるけんね。

じいちゃんとのんびりしよって。

ありがとね。

 

やっぱり7月7日は1年で1番いい誕生日です。

 

新幹線とお土産

東京に行く機会が増えている。

 

今年度から異動した今の部署では展示会などに行かせてもらう機会が多い。

展示会といえば東京だ。

やっぱり大都会東京はイベントに事欠かない。

加えて若手向け研修に関わらせてもらうことにもなり、それで東京出張が増えたせいだ。

会社が私に新幹線代とホテル代を出す価値があると認めてくれたということでありがたい話だ。

 

東京には大阪より友達が多くいて、今までなかなか行けていなかったこともあり、会いたい人がたくさんいる。

行くたびに、会えなかった友達に「声かけてくれよ!」と文句を言ってもらえるのが殊更嬉しい。

 

そんな中、会える幸運に恵まれた人にはできるだけお土産を持っていく。

もちろんお土産をもらうという小さなイベントを相手に体験してほしいからだ。

他にはセンスがいいと思われたいとか、わざわざ自分と会うために時間を割いてくれた相手への感謝とか、いい時間だったと思ってもらうための手助けでもある。

 

でも一番の理由はお土産を選んで、買う時間が自分で楽しいからだ。

その土地の特産という言葉どおり、できれば大阪らしいものを渡したい。

そうして探して、それらしいものを見つけたときの満足感。

渡した相手の反応を想像しているときのわくわく感。

渡すまでの時間まで楽しませてくれるお土産は私にとってもギフトである。(なんのこっちゃ)

 

個人的にはお土産は

・さっと渡せるもの(大きさとしても金額としても)

・中身はもちろん外見も魅力的なもの

・日持ちするもの(または日持ちしない分特別なもの)

・すぐには手に入らないもの(今の時代東京相手にはこれが一番難しい)

という条件を満たせたら尚良いと思っている。

 

そういう意味では今日は新幹線に飛び乗る前の5分で、ある程度条件を満たしたと思えるお土産を買えたのだから、道理で今達成感があってわくわくしているわけだ。

仕事はまだ始まってもいないというのに。

 

このブログを今回お土産を渡す前に見られることがありませんように。

そして私からのお土産で少しでもいいから驚いてくれたら嬉しい。

なにより私と過ごす時間が少しでも有意義でありますように。

お土産で嵩増しして間に合うくらいには盛り上げられるようがんばります。

肘掛けと美しさ。

マナーを守らない人が嫌いだ。

 

今日からゴールデンウィーク(10連休‼︎)ということで、地元福岡へ帰省するために新幹線に乗っている。

堂々たるホワイト企業

ありがたや。

 

ところでなぜ新幹線の座席と座席の間の肘掛けは一つしかないのか。

座席分の利用者数を想定して作っているはずなのに、肘掛けが十分にないのはおかしい。

そんな作りにしたせいでこの世に存在するストレスが確実に増えてしまうことまで想定できなかったのか。

 

私より先に座っている人が、私が隣に座ることを認識しても尚、真ん中の肘掛けを我が物のように使っていることがままある。

早い者勝ちだという理論なのか。

仮にそうだとしても肘掛けを占有しつつ更にこちら側に肘を迫り出して座る無礼者は一体何様のつもりなのか。

細くても肘掛けを人数分用意してくれていれば、こんなイライラ自体が存在しなかったのではと新幹線に乗るたびに思ってしまう。

ちなみに一部の映画館の座席でも同じ作りになっているが、あれは隣の女の子の手に触れられるというメリットが生まれるので例外とするというかありがとうございます。

 

道の真ん中に突っ立って周りが見えていない人も理解に苦しむ。

なぜ人通りの多い往来や細い道に限って、意図して邪魔しているかのようにそこにいるのか。

しかも大抵は内輪話で盛り上がっていたり、スマホに夢中になっていたり、二次会に繰り出すタイミングを掴めずうだうだしていたりとしょうもない理由ばかりだ。

 

そりゃあ私を含め人間いろんな理由でふと立ち止まることはある。

立ち止まっているその人が苦しい面持ちだったり、今にも涙しそうな表情なら責める気も起きない。

ふと道に迷って立ち止まることもあるだろう。

ではなぜその後、まずは脇に逸れようという発想に移らないのか。

気持ちに余裕がなければ少し時間がかかってからでもいい、なぜ今の自分の存在が誰かの迷惑になっているかもしれないと考えようとすらしないのか。

自分を、特に自分の悪いところを振り返らない人間に成長はないと思う。

やはり人間、足も心も立ち止まった後にどう動き出すかが大事だ。

 

以前Twitterを見ていたら、こんなつぶやきがあった。

「日本語ではね、『とても美しい』よりも『美しい』のほうが美しいんです。」

本当にその通りだと思う。

うだうだとここがこうでだからどうだなんて書き連ねるのは美しくない。

本当に伝えたいことこそ、簡潔に、わかりやすく伝えるべきだ。

 

ということで今日のこのブログからわかるのは下記の2点。

・文章が長々しくて美しくない。

・マナーを守らない人が本当に心から大嫌いだ。

日本語って面白い。

餃子とことわざ

今日は発明の日らしい。

発明といえば餃子だろう。

あれは中国人を尊敬する理由の筆頭だ。

 

小さい頃餃子と言えば母の手作りだった。

ときどき兄妹三人餡を包むのを手伝ったのは楽しかった覚えがある。

餃子の皮には「少し少ないかな?」と思うくらいの餡を入れると、包みやすく、綺麗な餃子ができる。

小さい頃から将来は横綱になると親戚中から言われるほど大食漢だった私は、いつも餡をたくさん入れたがり、案の定溢れたり、綺麗なヒダが作れずにいた。

子どもながらに『過ぎたるは尚及ばざるが如し』を学んだ瞬間である。

  

しかし結婚した今、我が家の餃子と言えば味の素の冷凍食品だ。

妻の手抜きだなどとは微塵も思っていない。

まったく不満もない。

なぜなら油を使わずとも驚くほどおいしいのだから。

このままいけば6月に2歳になる娘にとっては餃子=味の素になるのだろう。

 

そういえば私は小さい頃ソーセージのことをプリマと呼んでいた。

メーカ名のプリマハムからきているわけだが、あれがプリマじゃないとわかってからも私にとってはプリマだった。

今でもソーセージと呼ぶたびに少し違和感を感じるほどに。

 

そうなると娘はある日の夕食に「味の素が食べたい!」と言い出すかもしれない。

かわいいやつめ。

でもそうなると家族で餃子を包む楽しみは知らないことになってしまう。

それはなんともさびしい。

 

たまには餃子を家族で手作りしよう。

せっかく大阪にいるんだからたこ焼きもいいな。

想像するだけでも楽しくなってきたが、ふと今自分が餃子の王将のカウンターにいるのを思い出した。

餃子定食のダブルを食べ終えてお腹が苦しい。

未だ『過ぎたるは及ばざるが如し』を実践できていない30歳。

娘に嫌われたらどうしよう。

誰だ餃子なんか発明したのは。